成功は才能or努力論争を「エピジェネティクス」から考えてみた

      2017/11/15

よく議論されている

「あらゆる成功はその人の才能によるものだ。」

「いいや、ひとえに努力があったからだ。」

という才能or努力論争について、「エピジェネティクス」という学問分野から僕なりに考えた結果、しっくりきた考え方が見つかったのでまとめてみました。

ツッコミどころがあればドシドシお願いしますが、あくまでも僕個人の考えですのでお手柔らかにお願いします!笑

成功の定義

まず、本記事における成功の定義をきちんと決めましょう。これを曖昧にしたまま議論しても本筋とずれたところで衝突してしまうことが多いですし、読んでる方にもモヤモヤして欲しくないので。

本記事では成功を「トッププロ」ということにしましょう。

ただのプロではなくトップ。
スポーツならワールドクラスの選手になることを成功としましょう。

ちょっとハードルが高すぎると考える方も多いでしょうが、個人の価値観が影響するようなハードルの高さだと、才能か努力か?というそれぞれの本質にフォーカスできないと思います。

例えば高校で県大会に出場とか、関東大会、全国大会にすると、確かにすごいですが、その成功を基準をにするとそもそも成功だと思わない人もいるでしょうし、そのレベルだと才能か努力か見極められないと思うのです。その成功ならどっちでもありえそうだからです。

だから、ほとんどの人が成功だと言える高さである、「トッププロ」で考えていきたいと思います。

 

従来の考え

才能派

では、それぞれの考えを整理しましょう。
まず才能論を信じている人の考えをまとめると、

「全ての人間の能力は、DNAに刻まれている。よって成功する人には、元々その能力が備わっている。才能ない人が努力によって成功することはありえない。もちろん、成功する人は努力をしているはずだが、最後の壁はやはり才能でしか乗り越えられないし、そもそも努力できるのも才能の一部である。」

ざっくりとですが、こんな感じでしょう。
例を出すなら、「誰でもウサインボルトほど早くは走れるようにならない。」と言ったところでしょう。ボルトほど早く走れる人間は、生まれた時から決まっている。という考えですね。

努力できるのも才能というのは若干ずるい言い分な気もしますが、人間の性格や考え方に先天的な部分がありそうな以上、”努力できる遺伝子”なるものが存在してる可能性もあるでしょう。

 

努力派

一方、努力論を信じている人の考えは

「才能の存在は認める。しかし、才能があるだけでは成功はできないし、才能がなくても努力すれば成功できるはずだ。したがって、誰でも必要な量の違いはあるだろうけど、それを超える量の努力をすれば成功はつかめる。」

こちらもざっくりですがこんな感じでしょう。
才能の存在を否定する人は少ないでしょう。それは今まで生きてきて、センスだったり運動神経だったりで、実感してるはずなので。しかし成功するかどうかで考えた時、それは才能だけでは足りず、努力が必要である。なのでむしろ努力こそが成功に必要な要素である。という考えだと思います。

 

対立点の整理

それぞれの考えからまとめると、どちらの論者も成功のために「努力は必須で才能だけではダメ。」ということは認め合っているが、「結局のところ成功するために必要な一番の要素」がどちらか。ここに対立が存在しているようです。

色々書いてきましたが、この流れからどう対立しているかをシンプルにすると

 

才能派「トッププロになれるのは選ばれた人間だけだ」

努力派「才能は"成功しやすさ"に過ぎない。成功を司るのは努力だ」

 

こうなるでしょう。
では、この論争に決着をつけることができるかもしれない、エピジェネティクスから考えた見方を紹介します。

エピジェネティクス

 

 僕の考え

そもそもエピジェネティクスとは?

現在、エピジェネティクスを研究している方々によって決められた定義はこちらです。

DNAの塩基配列に変化を起こすことなくDNA複製・細胞分裂を経て伝達される遺伝子機能の変化(及びその機構を探求する学問分野)

かなり砕けた言い方をすれば、「遺伝子によらない遺伝の学問」といって良いでしょう。

DNAに書かれている遺伝情報をいじったりぜずとも、外的要因(環境や刺激など)によって現れる形質(現れる様々な特徴)が変わることがあります。その原因を追求する学問です。

エピジェネティクスという学問分野の話はとても面白いのですが、ここで書くと長くなってしまうので、別の記事にしたいと思います。しばしお待ちください。

ということで、このエピジェネティクスで研究されている、外的要因(環境や刺激など)によって現れる形質が存在するという事実を軸に据えて、成功における才能と努力論争の新たな考えを紹介します。

 

エピジェネティクスから導いた考え

僕の考えは、

「才能とは、遺伝子にもともと書かれていた能力のうち、ほっといても発現する形質の部分である。しかし、遺伝子には放っておいても発現しない秘められた形質もあり、それが発現するためには外部からの刺激が必要で、その刺激というのが環境や努力である。とはいえ、そもそも遺伝子に秘められた形質が存在しなければ、努力といった外的要因は無意味である。」

というものです。
言ってしまえば才能論を支持した上での考えということになりますが、ちょっとだけ違います。

それは、「結局成功に一番必要なのは才能であるが、才能だけのパターンと、努力が必要な才能パターンと2つある。」という点です。

 

運動神経は白人より黒人の方が優れている。だから陸上などでは黒人の方が成功している。これは揺るぎない事実でありますが、これは黒人が放っておいても発現する能力である「才能」を持っているからです。これが才能だけのパターンです。
それとは別に、黒人が持っている、放っておいても発現する遺伝子である「才能」持っていない人でも、努力によって引き出される形質を持っている人でも成功することはできるでしょう。これが、努力が必要な才能パターンです。
したがって、才能もなく、そもそも秘められた形質も存在しなければ、努力が身を結ぶことはない。ということです。

才能派よりですが、才能派と努力派の間に存在しる考えであるかなと、思います。

 

最後に

正直むちゃくちゃです。なんの根拠もありません。

普段からこういう話をするのが好きで、たまたまエピジェネティクスのことを学ぶ機会があったので、それと絡めた記事にしてみました。

一番大切なのは、何派であろうと、それを盾にして行動しないのが一番ダサいってことです。最近流行っているアドラーの心理学をもとにした啓発本

嫌われる勇気

って本にも書いてありましたが、自分がしない言い訳を探すために議論しているわけではないので、それだけはわかってください。笑

この記事だけでは、エピジェネティクスの所を掘り下げられなかったので、正直「エピジェネティクスってなんやねん。ポッと出のくせにでかい顔しやがって」って感じだと思います。早く書きたいと思うので少々お待ち下さい!

それでは
カルボン酸太郎でした!

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